大覚寺 (旧嵯峨御所大覚寺門跡)

「いけばな嵯峨御流」の家元でもある大覚寺に行って参りました
ここは 空海が作った五大明王の中の不動明王をご本尊とする嵯峨天皇ゆかりのお寺です
空海が広めた真言密教での寺院では「護摩焚き」(ごまたき)をする事で有名ですが
「護摩」とは、サンスクリット語の(ホーマ)から来ていて「焚く」「燃やす」という意味だそうです
「護摩焚き」とは、細長い薪木に火をつけ燃やし、その炎の中にお供物を投げ入れる行事です

小さい頃 私は「胡麻を炊く」と勘違いしていました(笑)
胡麻の香ばしい香りまでも想像して出向くのですが
焦げた匂いしかしないのでおかしいなと思っていました
大覚寺の門をくぐると、平安時代にタイムスリップした様な空間が広がります
よく、時代劇のドラマや映画に使われるのもうなずけます!

境内の東にある大沢池は、周囲が一キロの日本最古の庭苑地で、ほとりには茶室「望雲亭」があります
蓮が咲いていたのですが、写真でははっきり写ってないのが残念です
写経も有名で、多くの方が熱心に般若心経を浄写し、奉納されていました
元々は、嵯峨天皇の離宮だったのがお寺に改められたというのですから立派なはずですね
※ちなみに「胡麻」ではなく「護摩」だと知ったのは、あまり遠くない過去だという事はここだけの秘密です

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とらやの羊羹 

先日、生徒さんからとらやさんの珍しい羊羹を頂きました
東京都美術館で開催されている「マウリッツハイス美術館展 オランダ・フランドル絵画の至宝」
「ヨハネス・フェルメール」の作品来日にちなんで特製につくられた羊羹だそうです
ご銘は「蒼ノ調べ」と書いてあります
フェルメールが得意としてよく使う青い色を表現しているのでしょうか
とてもステキな配色で道明寺羹が入っており、さわやかな風味と感触で美味しくいただきました

ちなみに、とらやさんの羊羹が贈答品によく使われますが
先日京都の方からこんな事を言われました
「とらやのお菓子を東京土産として京都に持って行く人がいるけどちゃんと分かってるかな~

なにが??と思いきや、なんと とらやさんは室町時代に京都で創業!
古くから皇室の御用達和菓子やさんだったため
天皇の居住である御所が明治維新を以て江戸に行幸されて来た時に一緒に移って来たというのです
知らなかったです~

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名水点 (めいすいだて)

お点前には、何かをクローズアップさせて 愛おしみ楽しむものがたくさんあります
お茶を点てるうえで影の立役者と言ってもいいような 「水」に焦点を当てる点前に
「めいすいだて」があります!

日本全国各地にある由来のある水や名水として知られている水を使って濃茶を点てる点前です
この釣瓶の恰好をした水指(みずさし)に白いぬさをかけ、名水を入れておきます
まず客にお水をそのまま飲んで頂き、それから抹茶を差し上げます
水も清らかなものが美味しいお茶がたつ条件ですが、点てる人も頂く客もそれぞれに
人を敬い、万物を敬うその心が一番美味しいお茶を点てて頂けるレシピではないかと思います
(今日は、ちょっとうまいこと言ったかな)

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主人公 

「主人公」とは
日常よく使う言葉ですが、これを禅語で言うと違う解釈になるんです~

中国 浙江省(せっこうしょう)
浙江省の位置
中国の浙江省で850年~910年(推定)に活躍されていた
瑞巌(ずいがん和尚)が毎日自分自身に「主人公!」と呼び
また自ら「はい!」と応える修行をしていたそうで
「おい!主人公!目を醒ましているか」「騙されるでないぞ!」と自分に言い聞かせ
本来の自己を覚醒させていたというのです
禅語でいう「主人公」とは、本来の自己の事なのです

とかく人間は自己をとりまく環境に流されて本来の自分を亡くしてしまっているので
本当の自分をもう一度見つけて戒める意味があるのです

自分の身ぐるみをはがし、権力も財産も地位も肩から外してみると
本来の自分が見えてくるというのですが、なかなか日常ではできない事です
(私は、何ももってないですが・・・)
禅はもともと、本来の自分を見据える事から始まると言われています
入門編でいきなり難しいですね

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盆略点前 ぼんりゃくてまえ

はじめてのお茶の作法として
おじぎの仕方や歩き方、ふくさのさばき方など個々の作法を覚えた後、初めてできるお点前を
裏千家では「盆略点前」と言います

お盆に道具を乗せて持って行き、手軽にお客様にお茶を差し上げる事ができる点前です
手軽といっても、この点前には大事な基本が詰まっているので
丁寧に一つ一つ修得して いく事が大切です
利休の言葉に
「稽古とは一から習い十を知り、十よりかえる元のその一」があります
一から習い、やがて十に向かって修練するうちに元の一そのものの本質が見えてきたり
一を習っていた頃の初心を忘れてしまっている事や
十ができるという事で心におごりがでてしまう事も含めて戒める意味もあります
とても深~い言葉です 
この盆略点前を思う時、この言葉を思い出します
私の思う「一」を形にすると この盆略点前 なのかもしれません

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